バナナフィッシュにうってつけの日

徒然なるままに。虚弱体質の社会人がなんとか生きている記録。

信じたいなら、信じれば。

子供の頃、例えば「お姫様になる」とか「お兄ちゃんと結婚する」とか言っても誰も否定しなかったのではないだろうか。

 

お姫様になる、は言ったことがないけれど後者は何度か言っていたような気がする。

当時の私にとって楽しく遊べるよい相棒だったに違いない。

 

例えば今、「私は絶対アイドルになるんだ」と言い出したとする。(雑な例えだけれど)

友達や親はおそらく否定するだろうし、「なれる訳ないよ」と言うのだろう。

けれど、他人が信じているものを否定する権利を、誰が持ち得ているのだろう?

 

それが非倫理的なものであったとしたならば(倫理観の定義も難しいのでそこは大雑把な感覚で目をつぶって欲しい)、「それは違うのでは?」と諭すことも必要かもしれない。

けれど、信じているものが他人を傷付けるようなものでなければ、どんな権限を持ってそれを否定できるんだろう。

 

「できる訳ない」「ただの現実逃避の妄想」

といった言葉や、態度から読み取れる否定によって、“信じているもの”はどれだけぐらついてしまうんだろう。その人の信念、情熱、希望はどれだけ損なわれてしまうんだろう。

どれだけ、不安にさせられてしまうんだろう。

 

不安という感情の扱いにくさについては、これまで沢山経験してきた。

安心した状態ほど、穏やかな状態ほど自分の思い描く「幸せ」に近付いていく準備の整った、余裕のある、いいコンディションだと個人的に思う。

言うなれば「幸せを受け入れる準備」というような。

それを他人の言動や態度ひとつで壊されたくないのだ。

 

全部全部、肯定してほしいのではない。

否定しないでいてくれればいい。

例えそれが、現実的とは思えないものであっても、他人にとって「非現実的」であるだけで、当人にとっては「限りなく現実」なのだから、それは殆ど現実なのだ。

現実を見据えて前に進むことの、何が悪いのだろう。

 

信じたいなら、信じれば。

人間は他人の言動によって左右されがちだから、難しいかもしれないけれど。

ここまで書いていて、思い当たる節があったのでまた後日気が向いたら書き出してみる。

 

 

 

 

 

 

 

諦めの悪さについて

「よく頑張ってるよね〜」と色んな人から言われる。両親や友達から、何故かよく言われるこの言葉。

 

はて、なんのことやら……と思うのだけれど、周りから見ると私は常に変わろうとしているらしい。

 

「人生こんなものだなって諦めてるよ」

 

それは「こんなもの」だと思える人生が今まであったからだからなのではないだろうか……?

反対に、私は「こんなものだろう」と納得出来るほど幸福な人生をまだ送っていないと感じる。

 

まだ、広い世界があるはず。きっとそこにいけば、心は安らいで、いつも感じるこの渇きも満たされるはず。

 

そう思って、毎日毎日足掻いている。

他人から見ると「頑張っている」らしい。

なるほど、そういう考え方もあるのだなぁと思う。私はきっと諦めが悪くて、幸せに貪欲なのだ。

 

思い描く「いつか」は、いつも幸福で、焦りも寂しさもなくて。

きっと幸せに違いない、と。そう思って生きていたい。それだけなのだけど。

 

今日も今日とて、消えない渇きと焦燥感を持て余している。

 

 

 

痩せ型と憂鬱

156センチより低いくらいの身長で、体重を40kg台でキープするのが難しい。

気を抜くとみるみる痩せていくし、何より食べられない。

「食べろ」 と言われると余計食べたくなくなるし、食事の最中に辛くなってくる。

拒食症などといった摂食障害ではないらしい。ただ単に、精神状態によって食欲ががくんと落ちる。

そして痩せると大変なのが、「椅子に座っているのが辛い」。お尻の骨が硬い椅子に刺さるようで、座っていることが苦痛になる。

高校生の時は34kgまで痩せたことがあったけれど、流石にやつれ過ぎていて当時の写真を見るとびっくりする。

 

不思議なとこに、自分では食べない料理やお菓子を作るのはとても好きだ。

作って満足して、食べなかったりするのだけど。

 

 

いつか死ぬのにどうしてこんなに頑張らなきゃならないんだろう?

と思う時と、

いつか死ぬならもっと広い世界で生きたい。

と思う時が交互にやってくる。

多分今は前者の方。頑張りたくないのに、早く人生が終わらないかなと思うのに、日常はのろのろと緩慢に、けれど確かな重みでのしかかってくる。

 

こういう時は、ちょっとだけラッキーだったことや、前向きに考えた時の自分なりのメモを引っ張りだして頭の中で反芻する。

無理に気分を上げようとせず、けれど確かに感じた感情を思い出すことで、ゆっくりと心が憂鬱から戻ってくる。

思い出や記憶は、お守りのようだと思う。

少し気分がよくなったら、また楽しい将来を妄想しよう。

 

 

寂しさを受けいれる

 

あっさり書いてみたものの、それはとても難しい。

楽しいことが終わったあと、高揚感で無敵かも!と思えても一晩過ぎて朝が来た時にぎゅーーーっと胸が痛む。

ああ、寂しさがやってきたな、と思う。

 

まさにそんな感じの今朝。

(割愛するけれど昨日まさに一大イベントがあった。)

アラームより先に目覚めて、胸の辺りが痛いな〜と思っていた。

万事休す。

 

普段の生活でこんなにも胸を痛める事はないといってもいい。なんだか、思春期くらいまではとにかく他人の感情に左右されていたような気がするけど、最近は警戒して、他人と距離を取るのが上手くなった気がする。

 

そんな中で自発的に「寂しさ」に突っ込んでいったのだから(それが楽しさとの引換とはいえ)仕方のないことなのだ。

 

ただ、ちょっといつもと違うことがあったので、忘れないための独り言。

楽しさの中で見出した、直感のような。この楽しさや幸せはこの先の人生でまた訪れるな、という勘のような。

 

そんなヒラメキが訪れる瞬間があった。

何故かは分からないけど、そんな気がした。そんな風に思ったのは初めてだったから、ちょっとわくわくもした。

この直感がお守りのようになって、また生きていけるんだろうなぁと思う。

 

素直に嬉しい、楽しい、と思えない私はそうやって納得することにした。

胸の痛みがすとんと、お腹の底に落ちていったような気も、した。

 

 

 

幸せ恐怖症とは……?

私には他人に理解されない思考の癖がある。

 

「苦痛がないと物足りないと感じる」ことである。

かなり変わっていると思うし、幸せなことが嫌いなわけではない。

ただ、幸せばかりだと何か試練がなければならないような気がしてならない。

 

小学校中学年くらいの時から、何故か不幸や理不尽なことが転がり込むようになった。

中高校生になっても、大学へ進学しても、社会人になっても、常になにかに悩んでいた。

ある時は同性からの愛情であったり、ある時は異性からの気持ちであったり、友人や知り合いが持ち込むお悩み相談、職場の変わった風潮など。

家族に言わせれば「いつも他人が持ち込んだことに頭を悩ませている」のだそうだ。

家族は家族で、母方の祖母からは広義での意味の、簡単に言えば「虐待」を受けていたこともある(あまりはっきりとそうだとは思わないけれど、精神的にかなり苦痛だった事は確かである)。

当日は一人になる部屋もなかったから、体育座りした膝に顔を押し当てて、目を閉じて空想することがとても楽しかったことを思い出す。

 

加えて言うと、私は自分のことが心底嫌いだ。

ルックスとか社会的な地位とか細々した事は沢山あるが、一番は内面の問題である。

自分は、自分自身がとても罪深い、嫌な奴だと知っているから。それなのに他人にいい顔をするから、周りからは「いい人」だと思われる。

そんな私を「好き」だという人がいると、ドン引きしてしまうのである。

こんな人間のどこが好きなの……?と。

 

先日「楽しみなことが憂鬱」という、ふんわりしたワードで検索している時にちらりと見かけたのが「幸せ恐怖症」なるものである。

もしかすると、私もこれに当てはまる側面があるのかもしれない……。

引き続き調べてみたいと思う。

 

一方で、絶対にいい方向に転がるという自信がある分野もある。

バランス、なのだろうか。

 

なんにせよ、自分について考える余裕が出来たのはよいことなのだろう。

 

ファンレター

 

私はファンレターをとても沢山書く。

尊敬する作家さん、クリエイター、俳優やアイドルには書いた事は無いけれど、とにかく「好きだ!」「美しい!」と思ったら書きたくてたまらない。

 

ファンレターの書き方等などもネットにあるけれど、私は(個人的な意見として)好きに書くのが一番だと思う。

勿論、読む相手が不快にならない配慮は必要だけれど。

 

書きたい時に、書きたいように書けばいいと思う。心が揺れた瞬間を伝える事は悪いことではないと思う。

 

学生時代、文学とお友達だったおかげか、「言葉に対するセンス」だけは抜群だとよくありがたいお言葉をいただいた。

なんとなく、その人が書く「文章」を読むとどんな人かが分かる気がする。本当になんとなく、だけど。

だから人が書いた文章を読むのも好きだ。特に惹かれるのは、「共感」を置き去りにしていくような、「書きたいように書きました」という一見乱暴な言葉の運び。「私には世界がこう見えています」というのが伝わってくると、なるほどなぁ面白いなぁと素直に「読んでいて楽しい」と思う。

 

話がそれたけれど、普段の生活で心が揺れることってほとんどないのではないか。仕事は「慣れ」が効率を上げてくれるし、なんていうか、1日、1ヶ月、1年はあっという間に過ぎてゆく。

そのうちどれだけ「楽しい」「悲しい」「すごい」「怖い」……なんでもいいけれど、心が動く瞬間はあるんだろう。

私の心が凍りついているだけなのかもしれないけど……。

 

とにかく、そういう「心の揺さぶり」をくれた、貴方の作品や貴方の存在がそのきっかけになった、と伝える事はとても素晴らしいことだと思う。

年に何回まで書いていいのか、なんて悩まずに、書きたい時に書けばいいと思う。

 

そういう訳で、今日もファンレターを渡した私でした。

お気に入りの便箋やペンを見付けるのって、楽しいよね。

メモリージャー

 

思い立って検索ワードを入れれば、いつだって美容法やらネットの裏技やら、色んな悩みに答えてくれるのに。

 

「楽しみ 怖い」とか「楽しみ 憂鬱」とか調べてみても、ヒットしない。

もしかして、「楽しみなことが近付いてくると、その反面終わることが怖くて憂鬱になる」という感情は特殊なのかも知れない………?

 

少し考えて、「楽しみを閉じ込めたおきたい」で検索してみた。

 

ヒットしたのは 「メモリージャー」

その存在自体はなにかの折に聞いたことがあったけれど、私は日記をつけているので敢えて作ろうとは思ったことがなかった。

 

「終わることが怖い」気持ちは幼い頃からあって、寧ろ楽しんでいる最中、例えば映画館でスクリーンを見つめている時、友達と旅行先で食事をしている時、イベントに参加している時。「早く終わってしまわないかな」とすら思う。(私の感情そのものが特殊なのだろうか……?)

もし、メモリージャーなるものに楽しさの結晶を留めておける、としたら。

その気持ちだけで、少しは「終りへの恐怖」から解放されるのではないか。

 

早速入れ物を用意してみた。

私の気持ちの、心の行き場所。

流れ出たまま、消えてしまわないように。

本当は「今」に「瞬間」に、素直に生きたいのだ。