バナナフィッシュにうってつけの日

徒然なるままに。虚弱体質の社会人がなんとか生きている記録。

愛されたいと願うこと

以前の私は「愛したい」という気持ちばかりだった。

愛させてくれるのなら見返りなんていらなかったし、迷惑に思われ拒絶されなければずっと愛していられた。(ちなみに誤解を受けそうなので断っておくと、男女共に、恋愛感情なしで、の愛である)

 

友達が世界のどこかで、私からは遠く離れた場所ででも、笑ってくれていればそれで良かった。

それが私の幸せだった。

 

最近は少し違う。

「愛したい」のは相変わらずなのだけど、「愛したいし、愛されたい」と思うようになった。

かつてより、貪欲で醜い。

だけどその欲の深さは、一見すると利己的な醜い感情は、少しずつ自分自身を許せるようになってきた証なのではないかな、と思う。

 

愛される価値なんてないとずっと思っていたから、他人からの愛に頼っていた。

自分を好きだという人と一緒にいれば、少しは自分を好きになれるのではないか。

そんな風に、過去沢山失敗して傷ついてきた。(再度断ると、恋愛ではない)

 

他人に自らの価値を決めて欲しいなんて、なんて図々しいんだろう。

 

ほんの少し芽生えてきた「愛されたい」という気持ちを刈り取ってしまわないよう、毎日少しずつ水遣りをするように。

少しずつ、進化している、そう信じてる。

ピンキーリング

 

指が細くてリングが抜けてしまう、という方は結構多いのではないだろうか。

ネットで検索してみても、細いものはなかなか見つからないもので、先日デパートをブラブラしている時に店員さんに訪ねてみた。

意外なことに、NOJESSピンキーリングは#0や#-1まで対応しているとのこと。

ネットなどでは3号までしかない、など読んだことがあったので驚いた。

 

ピンキーリングが好きになったのは多分高校生くらいの時だったと思う。

メイクやアクセサリーなんて言語道断、という学校だったから、身につけていることはほとんどなかったけれど、小指に小さなリングをすることは、なんだか自分だけの秘密を持っているような気がした。

 

折角気に入ったデザインがあっても緩かったり、落としてしまったり、修理に出して無理やり小さくしたり。

春ぶりに会った友人に「また痩せた?」と言われたくらいだから、サイズダウンしているのかもしれない。

 

販売店でサイズが対応しているなんて珍しいから、勢いのまま買ってしまおうか。

 

今は少し、お守りを増やしたい気分なのだ。

 

幸せは自分が決める

少し前まで働いていた所は、本当に複雑な要素が絡まりあって、私の精神をぼろぼろにした。

ぼろぼろにした、と被害者ぶるのもよくないと思うけれど、私の前任者も早く退職したし、やはり何かがズレている場所だったのだと思う。

退職するまで、立っているだけで座り込んでしまうようなこともあった。

相当参っていたのだと思うし、絶対にあそこにはもう、戻りたくはない。

 

 

新しい職場で働き始めてからも、前の職場で溜め込んだストレスは体に出た。

まだ年休も付与されていないのに、起き上がれないほどの頭痛やめまいがあったり、ある日耳が聴こえにくい、と思い始めてから原因が分かるまでずっと下がらない熱に悩まされたりもした。

 

 

骨を折って松葉杖、とか目に見えやすいものとは違って、そういう症状は他人に理解されにくい。(決して骨折を軽いものと見ているわけではないことを言い添えておく。)

19歳の頃、突然声が出なくなった時もあったけれど、どうやって過ごしたかもう忘れてしまった。ただ、講義室が寒くて、白くて、冷たくて(大学を休まず通っていたのは今でも驚きだ)、離れていく友達もいたし、去り際にひどく傷付く言葉を投げかけられたこともあった。

何のことだか分からないけれど、「それは私に対する当てつけだ」というご意見も頂いた。そう思うのは今考えれば、私になにか罪悪感でもあったんだろう。

とても孤独だったことは覚えている。

それでも乗り越えたし、卒業もした。卒業論文はA+判定で、好きなものをやり通したと思った。

 

朝目覚めて体が動かないとき。

疲労感で動けないとき。

「そういう時もあるよね」とは思えずに、「しっかりしなきゃ」と思うのが私のクセで、性格だから直すのは諦めているのだけど、だいぶ自分でも自分を追い詰めているのだ。

学校や会社を休むのに罪悪感を常に抱いてしまう。これが自分でなかったら、「無理しないで!」と思うだろうに、自分のこととなると責めることしか出来ない。

 

耳が聴こえにくい原因は、前の職場のストレスと、炎症の雑菌が体に回ったことの結果らしかった。悩んだ末に職場に休む旨の連絡を入れて、耳鼻科に駆け込んだけれど「異常なし」と言われて帰され、「何かがおかしいはず」とダメもとで予約制の頭痛専門のクリニックへと向かった。

そこでやっと原因にたどり着いて、今までの私は決して怠けていたのではないと、苦しさから解放された。

予約にたまたま空きがあったこと、そこをネットで見付け出したこと、諦めずひと踏ん張りしたことが幸いした。

 

 

弱い私でもなんとか生きているし、きっと色んな人に迷惑をかけているのだけど、それでも助けてくれる友人も、一握りだけ、いる。

でもやっぱり、そういう「誰の所為でもない」ことに過剰に反応して、こちらに矛先を向ける人もいる。

理解して欲しい訳じゃない。だけど、「そうなったのは私の・俺の所為だって言いたいんでしょう」という考えをする人もいる。

違うんだけど、当人達がそう感じるのは、やっぱり私になにかした覚えがあるのかな、とも思う。

 

 こっちはそれどころじゃないよ!というのが本音なのだけど、臆病なので黙り込んでしまう。

妬むほどの幸運なんて持ってないよ。

でも、確かに嫌なことが続くとラッキーなことが多いという不思議な釣り合いを保ってもいる。おそらくその面だけピックアップして、見ているのだろう。

それは私の一面にしか過ぎないのだけど。

 

最近、思い出をきちんと可視化するようにし始めた。写真は現像する。採用されたメールはプリントアウトしておく。チケットとパンフレットの整理。などなど。お気に入りのバインダーを見つけたら、そこに入れていく。

私が生きてきた、キラキラした気持ちを抱いた、証。

 

幸せは自分が決めるんだ。

誰にも踏みにじる権利なんて、ない。

思い出を大切に抱きしめて、また新しいキラキラに手を伸ばして、生きていきたい。

 

 

 

 

 

大人になった所

当たり前のことなのだけど、他人によって誘発される感情が強すぎて、最近めまいがする。

他人の感情に酔ってしまう、とでも言えばいいのだろうか。

 

言い方は乱暴だけど、喜んでいる所に水を差されたり、あらぬ噂をさも本当のように囁いてきたり。

好きなものも、信じてきたものも分からなくなる。

 

私は私がとても傷付きやすいことを知っている。だから、他人と一定の距離を保つのを忘れない。

10代の頃は、傷付けられても相手を守りたくて仕方なかったし、嫌われたくない一心で追い掛けていた。

自分を斬りつけた人を守って、追い掛けて、さらに深く傷付いていた。

今は、斬りつけれたら、何もしない。追いかけもしないし、怒りもしない。ただ黙って、傷が治るのを待つだけ。

 

でもどうして傷付かなきゃならないんだろう。

どうして当てつけや、苛立ちはよく私に集まってくるんだろう。

 

 

それはさておき、好きなものや信じていることを否定されると、私はとてもぐらぐらする。

その夢を、好きなものを見付けたのは私自身なのに。他ならない自分の感情なのに。

たった一言、たったひとつの「他人」の振る舞いで、揺らいでしまう。

バカバカしいと分かってはいても、心は正直で。

 

強い人ならばここで関係を断ち切って、「私は私」と思うんだろう。それができないのは、そういった強い行動に出た時に相手から発せられるであろう言葉や反応に怯えているからだ。

どんなにどうでもいい相手からであっても、私はきっとそれに傷付く。

 

「羨ましさ」 はあっても「妬ましさ」という感覚は私にはちょっとよく分からない。

それも嫌味に取られるだろうけど、私にはその部分だけは「他人は他人、私は私」なのである。

自分の理解できない感情に基づいた言葉を、どう飲み込めばいいんだろう。

なんだかなかなか傷が癒えない。

 

私の感覚の中で「水のような文章」というものがあって、ポール・オースターが最近まさにその感覚で心を満たしてくれる。

 

久しぶりにサリンジャーを読み直してみようと思って、本棚を探したけれど見当たらず(誰かに貸したまま返ってきていないのだろうと思う)、書店でサリンジャーを探していたら、新潮文庫の棚、上の方にポール・オースターのコーナーがあった。

こんなに近くにいたのね、とその時思った。

 

色んな理由があるが、私は「月」がとても好きである。

太陽の光の反射でしかないという光の冷たさ、寂しさみたいなものも好きだし、理由を挙げればキリはないのだけど、とにかく月が大好きなのである。

そんな私が『ムーン・パレス』というタイトルに惹かれない訳もなく、またその本は最近おすすめしてもらったものだったから、特に、月並みな表現ではあるけれど、運命みたいなものを感じた。

 

 

学生の頃、日本文学かぶれだった所為か最近は海外文学に惹かれる。未だに読みにくいと感じるジャンルもあるけれど、たまにこうして出会う。するすると体に違和感なく入ってくる言葉。

 

ポール・オースターが「水のよう」ならば、私の感覚で言えばサリンジャーは「石膏」で、精密に刃が刻まれていく感じがする。硬質でひやりとしている。

カート・ヴォネガットは「砂丘」。埃っぽくて、前が見えない。でもカラっとしている。

 

最近では本に触れる時間もとても短くなった。物語は読まなくては、と思って読むものではないし、心が向いた時に読もうとは思うのだけど、日々の忙しなさがどうしても先に立つ。

 

そんな中でも、読みたい、と思える本。

時間を作って毎日一行だけでも読み進めたいと思う物語。

 サリンジャーの上に輝いていた月。

 

 満月の日に手に取ったのも、なんだか不思議な話。

本当に大切な事は誰にも言わない

 

「とても理屈っぽい」と言われることが多いのだが、その反面直感や感覚をとても大切にするという矛盾を抱えて生きている。

 

直感はとても鋭い方で、これから起こること、がなんとなく分かることがある。スピリチュアルなことは信じるも信じないも決めていないけれど、やっぱり自分の感覚には信頼を置いている。

 

とてもじゃないけれど、私の日常は「ツイてる」ものではない。

いつもいつもなにかに悩んでいるし、突然仲の良かった友達から妬まれたり(私から言わせれば妬む要素など何もないと思うけれど)、悪意を持たれることもある。

結局のところ、自分が悪いのだろう、と諦めてきた。

 

先日、それはそれはとても偶然に、心から喜べることがあった。そのことを、私は自分の胸の中だけに収めておこうと思っていた。

それがたまたま友人に伝わり、友人から突然連絡が来て、心を掻き乱されるような言葉がそこには書いてあった。

びっくりして、傷付いて、感情が麻痺したようだった。

 

本当に大切な事は、誰にも言わない。

夢の話も、望んでいることも、幸せなことも。

私はそう決めている。

だって笑われたら、馬鹿にされたら、踏みにじられたら。

私だけの、キラキラしたもの。思い出や楽しかったことや、直感は、すぐさま形を変えてしまう。

 

どうしても誰かに話したい時は、書類をマスキングするみたいに、一部だけ。

本当に大切な核心部分は見せない。

 

悩んだら、辛いと思ったら、過去にあった喜びを取り出して、「こんなことがあったな」と思い出す。

それできっと生きていける。

 

 

 

自分が自分であることの苦しさ

私にサリンジャー夏目漱石サルトルといったものを教えてくれたのは伯父である。

 

多分私ととてもよく似ていて、同じような所で同じように悩んで生きてきた。

先日、伯父とたまたま話す機会があったので、「なんとなく、今のままではいけない気がする」と軽い気持ちで話してみた。

 

驚くほど、伯父は私の気持ちを言い当てた。

「“自分が自分自身であること”が辛いんだよね」

「なんとなく毎日がつまらないでしょう、何をしたら満たされるんだろう?」

「自分がこう在れたら幸せ、っていうビジョンを持てればそれに向かって突き進めばいい。でもそれが分からなくて苦しいんだね」

 

私はよく「満たされない」と感じる。常に渇いていて、つまらなくて、だからいつもいつも「なにか」を求めてる。だけど求め続けることはとても疲れる。

 

とても不幸だとか、恵まれていないなんて思っていない。

仕事もそれなりにこなして、それなりに友達もいて、それなりの趣味もある。

だけど、つまらない。

どうしてもその檻に閉じ込められている。

 

「どう在れば幸せなのか」、それは私にとって1番難しい質問だ。

ただ、今のままではいけないというこの感覚はおそらく正しい。

今まで思い切った行動とか、周りの大人達に反対されるような事はしてこなかった。だからこそ、今激情で動いてみたい。

その先に何があるんだろう。

人生は甘くないけれど、時々、「どうにかなる」こともある。今はそこに賭けてみたい。

 

「自分が自分であることが最も苦しい」という感覚を理解してもらえたことが、たたただ嬉しくて、幸せの形は分からないけれど、少しだけヒントをもらえた気がする。

 

ノートにでも書き出してみようか。

満たされた自分を想像するのも、悪くない。