バナナフィッシュにうってつけの日

徒然なるままに。虚弱体質の社会人がなんとか生きている記録。

深く理解しようと必死になる

突然、一週間くらい前に読んだお気に入りのアーティストのインタビュー記事を思い出した。

大量のコピーを取りながら、でもその時間私はただコピー機の前で原稿が出来上がるのを待てばいいのだ、と束の間の休息。そんな中で、突然インタビューを思い出した。

 

「なんでも大体できてしまったから、こんなものか、といつもそう思ってしまっていた」

彼は雑誌の中でそんなことを、言っていた気がする。

それってどんな感じなんだろう、と思い始めたら止まらなくて、「なんでも大体できる」ってすごいなぁと読んだ時頭を掠めた感想を思い出し、「それってどんな感覚なんだろう??」と自分の体で、心で感じてみたくて仕方なくなる。

そうでないと理解できない、理解しないといけない、まるで強迫観念みたい。

 

こういう渇望というべきか、切迫感みたいなものは結論から言うと考えても無駄だし、1日も経てば落ち着くのだけど、経験上考えるのを止める、なんて無理で、本当に止まらなくなるのだ。

 

私自身、器用貧乏の毛がある。

嫌味でもなんでもなくて「大体の事は8割の達成率、ただし残り2割は永遠に手が届かない」みたいな感じ。

それを「8割だから花丸!」と捉える人もいれば「残り2割への悔しさ」に目がいく人もいる。私は後者で、だから「何もかも中途半端。何も出来ない」と自分のことをそんな風に思っている。

 

インタビューのことに話を戻す。

世の中には「共感」しなければ、ということがたくさんある。共感しなければ楽しめない、馴染めない、想えない、支えられない、愛せない、エトセトラ。

でも「共感」しなくてもいい、単に「彼はこういう人なんだなぁ」と思えばいいだけの話もある。インタビューは多分こっち。

共感しなくても楽しめて、アーティストを応援できて、という風に構成されているし、そういうものだ。

 

だけど共感したい、と私は思ったのだ。

自分の体と心で同じ景色を見てみたいと思ったのだ。

書いてみて、やっと分かった。

やっぱり想像は続いていて、多分午後の仕事中、彼の言葉の残像を追いかけるんだろう。

 

こういう感覚って、他の人にもあるのかな、と私は思う。