バナナフィッシュにうってつけの日

徒然なるままに。虚弱体質の社会人がなんとか生きている記録。

ぐらぐら、客観的に考える

自分が、友達だったらどうだろうって考えた。

目の前に自分がいて、こちらも自分なんだけれど、目の前の自分とは別人格。

頑張らなくていいんじゃないって思うかな、と思った。

 

時々、自分の体なのに、五感が遠くなる。目の前のものもぼんやりとしか見えなくて、ものすごく人にぶつかったり。色も匂いもみんな失われて、3色以上を混ぜ合わせた絵の具みたいな色。

私は多分、人よりも感覚が鋭い。良くも悪くも、感覚で世界を捉えていて、だから言葉を紡ぐのが好きなのだ。

それなのに、五感が鈍るなんて悲しい。何も見えない、何も聞こえない、何も香らない。悲惨な気持ちになる。

 

そういう生き方が、私を追い込む原因でもあるんだと思う。匂いや色や音に鋭いこと。それは何もかもを、それこそ悪意やどろどろしたものも吸収してしまう、何もかもに気付いてしまうことの現れだから。

 

それは「いい/悪い」では言えないことなのだけど、通勤ラッシュの電車内で思うのはみんな鈍感になって生きているから、生きていけるんだなぁということ。

私のように神経むきだしでは、あちこちが痛むだけなのに。

 

でもそう在ることは、私のアイデンティティでもある。

色が失われた世界なんて、生きてないも同じだもの。

 

きちんと働いて生きています。

通勤ラッシュにもめげずに通勤して、大体どんなことも出来るから、にこにこ、はい、分かりました。すみません、よろしくお願いします。繰り返し、繰り返し。たまに休んでしまう日があっても、次の日には席にいる。すみません、大丈夫です。

 

節電のために電気を落とされたオフィスで、パソコンの強い光を浴びながら、休みたいなぁ、と思った。

森の中とか、静かなところへ行きたい。

 

ここ数年間、同じ感覚に陥るのだけど、ものすごく好きなものに対して、突如「義務感」を覚える。

「好きでいなくてはいけない」という、たいそう不思議なものなのだけど、それは裏側で「好きでいないと、自分ではなくなりそう」という恐怖感を抱いているからで。

「好き」という本能的なものに対して「義務感」という理性の筆頭みたいなものがくっ付いて、違和感でいっぱいになる。

違う、本当に好きなのに、失礼だなぁ。

 

 

こんなにたくさんの事を考えていたら、疲れるに決まっているのだ。

私がもし友達だったら、休んで欲しいと思う。自分には言えない言葉を、多分言うんだろう。

「あと少し」「今週だけ」「明日まで」とごまかしごまかし生きてるけれど、転がり落ちたら早いんだろうな。

それでも私はあと少し、考えます。

 

でも、やっぱり、休みたいなぁ。