バナナフィッシュにうってつけの日

徒然なるままに。虚弱体質の社会人がなんとか生きている記録。

生きることの答え

私なりの「生きる」ことについて、今日ふと答えのようなものに思い至ったので、メモのように残しておきます。

 

ぱっと浮かんだのは木の枝でした。

「生きる」ということについて私が出した答えはこのふたつです。

「枝を伸ばす」、そして「見返りを求める」。


息をする。空を見上げる。伸びてゆく。


いつからか分からないけど、いつも「自分を後ろから見てる」ような感覚がありました。嬉しいとか悲しいとか、勿論感じるんだけど、どこか遠くで思ってるみたいで。

 

心地よいものを身につけたい、心地よい環境にいたい、心地よい音楽を聴きたい、心地よい言葉を読みたい。
それらは本能ともいえるかもしれません。そんなことも、私は忘れていました。

そんな日々の中で、いつも私は「幸せになりたいな」と願っていました。漠然としたものですが、多分「苦しくない状態」のことを「幸せ」だと思っているのだと思います。(今も半分そんな感じなので、現在系でしか言えませんが)自分が望むものも分からずに、幸せを願ったって届く訳がない。
私は多分、生きていたい。そして声を大にして言いたい。「自由でいたい」「気楽でいたい」「好きなものを犠牲にしないで生きたい」と。

 

日々は退屈で、ごちゃごちゃした色をしていて、劇的な変化もなく、ただただ過ぎてゆくものと、いつから諦めたのか。
心がしんどい時は、つま先を見つめがちです。一歩先、1日、1秒先のことしか見つめられない。

その先、ずっと先をなんとなく見たら、まだまだ人生には余白がありました。途方に暮れるような不安と、そのまっさらな状態に喜びを感じる自分がいました。
それは、「明日がきたら、仕事、日めくりカレンダーをめくる、眠る、起きる」といったこととは別次元というか、まだ未決定なこと、誰の指示も受けていない、時間、空間でした。

 

思い出も、嬉しい出来事も勿論ある。その時の感情は、薄れてゆく。それは当然のこと、なのだけど、「こんな楽しいことがあった」「とても素敵だった」「嬉しかった」という事実すら忘れていきそうで。ここ何年かは殆ど忘れて生きていて、なんて悲しいことかと思います。

 

無数の「もしかしたら」があります。もしかしたら、可能性。もしかしたら、思いもよらないことが起こるかもしれない。もしかしたら、自分も知らなかった自分の才能を誰かが見つけてくれるかもしれない。

それを受け止めて、自分の幸せにするためにはしっかりと枝を伸ばして、実りに気付かなくては勿体ない。

 

私は気持ちよく眠りたい。私は美味しいものを食べたい。私は心地よく生きていたい。

楽しいこと、嬉しいこと、幸せなことを求めるのは、何故だか悪いことのように思う。
何故悪いこと、と思うんだろう?
それに向かって生きていこうとすることを、いつからやめたんだろう。

 

愛したら、愛されたい。

大切にしたら、ありがとうと言われたい。

当然の心だと思います。強要するのはまた別の話だと思いますが、「そうあったらいいな」と思うのは、誰かに迷惑をかけるのでしょうか。

 

私は少し、生きている、という感覚を取り戻しつつあるように思います。

今の私が出した、生きること、の答えです。